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一 読谷まつりと小学校における「三線音楽」活動
私事で恐縮ですが、私が読谷村役場に採用されたのは、一九八一年六月一日であった。総務課に配属され、交通安全運動やカーブミラー、ガードレール等の交通安全施設整備などの担当をすることになった。前任者に教えていただきながら、少しずつ職場に慣れ始めた八月頃、突然村長室に呼ばれた。
山内徳信村長からは、私を読谷まつりの担当にするから頑張ってくれとの話があり、ついては課題があると言う。「まつりの魂となるものがほしい。読谷でなければ観ることができない、聴くことができない、そういったものをまつりの中で出来ないか」、それを私に企画してほしいというものであった。
私は役場の内部のことも、役場と各字との関係も、人間関係なども、全く知る由もなく「私に出来ますか、先生」(当時、高校時代の印象が強く「村長」より「先生」と呼ぶ方が多かった)と、戸惑いながら尋ねた。山内村長は「だからいいのだ。読谷高校で学園祭を君らは仕切ったじゃないか、村の学園祭だと思ってやってごらん」と言い、続けて「ヒントは読谷村には『赤犬子』という伝説上の人物と、『泰期』という歴史上の人物がいる。この二人をモチーフにしてプログラムを作れないか」とのことであった。
その日から「赤犬子」と「泰期」について調べ始めた。赤犬子についてはすぐに資料も見つかり、初めてその伝説と字楚辺区での「アカヌクー」祭りのことを知った。泰期については、本格的な資料収集や調査が必要だということが次第に分かり、まずは赤犬子をモチーフにプログラムを考えてみようということにした(泰期をモチーフにしたものは、五年目に創作「進貢船」として結実した。脚本の作成には新垣武常氏の全面的な協力と指導があったことを付記しておく)。そして「赤犬子琉球古典音楽大演奏会」が、村内の多くの古典音楽、舞踊関係者の協力を得て、この年の第七回読谷まつりから登場した。琉球音楽の祖、赤犬子を讃えた大演奏会は古典音楽の流派を越え、三線、箏、胡弓、太鼓、笛など村内の各研究所から約三〇〇名が集い、各琉舞研究所(琉舞練場)の出演もあり、見事な舞台を展開し大好評を得た。私にとって、それまで古典音楽を聴くこともなく、流派があることも知らず、とにかく無我夢中で走り回った日々であった。これが私と三線音楽との出会いであった。
学校での「三線音楽」活動と読谷まつり
学校における「三線音楽」活動は、指導者の存在如何によって大きく左右される。これまで読谷村で小中学校の「三線音楽」活動が盛んに行われてきた背景には、立派な指導者が多く存在したことによることが大きい。
そのころ、各学校には琉球音楽・三線音楽をこよなく愛し、学校での教育活動の中で活かして子供達の情操教育に活用できないかと考え、そして実践しようとする情熱を持った先生方が揃っていた。このことはまつりを通して「児童生徒に読谷の文化の素晴らしさを知ってもらい、もって次代の青少年を健全に育成し、世界に羽ばたいていく人材育成をする」という、読谷村の村づくり目標とも合致した。
いくら役場が音頭取りをしても、現場でそのことを実践していく人々がいなければ、行政の計画は計画倒れになってしまうことになる。そうしたことから言えば、こうした先生方の存在は大きく、正に運命的な出会いであったと言えよう。この出会いがなければ、今日の読谷まつりの「受け継ごう、読谷(ふるさと)の心」プログラムはできなかった。それではこの間の過程を概観することにしよう。
翌一九八二年の第八回読谷まつりで渡慶次小学校の児童たちは、長浜まさ子先生の指導のもと、歌舞構成「ゆがふ村ユンタンザ」と題して福祉センターの舞台狭しと歌い踊り、三線音楽教育の一つの展開として注目された。そのことは、伝統文化を掘り起こし、継承していこうというまつりのねらいと共に、新しい文化の芽生えを感じさせるものでもあった。
一九八三年の村内各学校の運動会では郷土芸能・郷土音楽を取り入れた演目がかなりあった。第九回読谷まつりでは、古堅小学校の創作「心燃ゆる島」(長浜まさ子先生指導・五年生)をはじめ各学校の取り組みが舞台前の広場で披露された。
この年は、池原三致子先生が古堅南小学校に赴任した年でもあった。池原先生は、運動会で児童たちの歌・三線による「エイサー」(五、六年生)を実現させ、読谷まつりでも運動会同様に演じてくれたのであった。こうした取り組みに対する反響は大きく、他市町村から祭りをご覧になった方々から多くの賞賛の声が届けられた。さらに、翌一九八四年には山内昌重先生が渡慶次小学校へ赴任するに至って、各小中学校の三線クラブ・部の結成につながっていった。加えて、琉球箏曲の仲眞竹子先生、山内栄子先生、三線の仲眞朝健先生、喜友名美智子先生に、与座朝久読谷小学校教頭(当時)らの学校での精力的な指導が相まって、ついに五つの小学校の合同発表会への気運が高まってきた。

渡慶次小学校での指導風景(1986年撮影 朝日新聞社)
一九八四年、第一〇回読谷まつりで、初めて村内の五つの小学校の三線クラブ・部の合同発表会が実現し、歌と踊りで感動いっぱいのステージを展開してくれた。
読谷まつりの一〇周年の『記念誌』を発刊するに際し、「読谷まつりの新たな展望を求めて」と題する一文で、私は過去一〇年を「蓄積の一〇年」とし、これからの一〇年を「創造の一〇年」としようと書いた。それは山内村長はじめ役場全体で新たな取り組みを始めようとの決意の表明でもあった。その第一が創作「進貢船」の登場であった。その次に取り組もうと考えたのが、第一〇回まつり以来継続してきた村内小学校合同の三線と踊りのプログラムであった。この間、五つの小学校に加え、中学校の三味線クラブも加わるなど、新たな展開が可能となってきたが、すべてが順風満帆であったわけではない。それぞれ学校側の事情もあり、参加校が増えれば増えるほど調整のためのエネルギーも必要となる。そうしたことも岳原宜正先生(当時古堅南小学校長)の力強い指導と各先生方の持ち前の情熱で乗り越えていただいた。
唄三線・箏など指導者一覧(年度別・学校別)抜粋
そして一九八六年、第一二回読谷まつりから「受け継ごう、読谷(ふるさと)の心」として新たな取り組みを開始できた。当初は、舞踊も自前で指導、学年単位での出演を得て、内容豊富に舞台を構成し、大成功を収めてきた。
しかし、学校現場での三線クラブ・部の活動は、大人の研究所のように継続しながら少しずつ上達して、いろんな曲目を弾けるようになるといったものではない。四年生から始めて、六年生になるまでにかなり上達するが、六年生が卒業してしまうと演奏能力ががくっと落ちる。新しく入部してきた四年生にはまた一から教えながら、新六年生を鍛えて祭りにも間に合わせる、こんなことの連続の中で、指導できる教師の異動により活動が低迷し、ついには廃部(クラブ)になることもある。また、何年も継続してプログラムを演じていると、周囲からは「毎年同じ曲目」と指導者の心を傷つけてしまうこともある。「毎年同じ曲目」ができることの素晴らしさを、その裏にある指導者の苦労を私たちは察知しなければならないのである。演じる曲は同じでも、演じている子ども達は違うのである。

第11回読谷まつりから(1985年11月)
海ヌチンボーラー(渡小1年生)
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貫花(読小6年生)
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このようにそれぞれの教師の葛藤や苦悩があるなかで、私は読谷まつりの一五周年(一九八九年)を記念して「読谷子ども賛歌」(作詞山内昌重、作曲山内秀吉、編曲中村透)の企画を進めた。従来の三線、箏、太鼓などに吹奏楽を加え、合唱隊を編成して望むとするこの作品は、それまで以上の過重な負担を学校現場に持ち込む形になってしまった。村内では優れた音楽専科教師の指導で吹奏楽やマーチングバンドの活躍が顕著であったが、三線音楽のほうは、担当教諭の異動により、大きな困難が予想された。こうした事態を打開しようと作曲の山内秀吉先生と作詞の山内昌重先生の直接指導や、長浜真輝君ら卒業生を指導者として招くなどして、どうにか形を整えた。村内各小学校の吹奏楽部、合唱隊と三線クラブの合同の大編成となったステージは、総勢八〇〇名の出演で例年以上の活況を呈していたと見えた。いや、現に大成功として称賛を浴びた。
しかしながら、やはり無理があった。洋楽も三線音楽も同じように大事な音楽教育なのだと表明したかったのだが、現実には音楽の時間に三線を教えているわけではないのが現実だ。まつりを企画する側のこうした意図と、学校現場の指導者との意識の乖離があったことを、私自身素直に反省しなければならない。児童達の成長とあわせて無理のないプログラムを構成し、やって良かったと思えるようなものでなければ継続することはできない。その後二度と「読谷子ども賛歌」は舞台で演じられることはなくなった。吹奏楽と三線はそれぞれのよさを生かしていくべきなのであろう。
伝統文化教育の意義について山内昌重先生は次のように述べている。
村内の小中学校の児童生徒が一堂に会して演奏する喜びは実に大きいものなのである。まず、個人で一つの曲が弾けるようになったことの喜びは、やった人でなければ分からない。その喜びが二〇〇名近くの合同で出来ることは、参加している子ども達にとって「喜び」は何倍にもなる。そして、これはチームワークがなせる技であり、誰かがぼんやりしていたり、集中できていないと間違いなく弾き終わることは出来ない。共同で、協力し合って成し遂げることを学ぶ場でもある。
稽古も「お願いします」で始まり、「ありがとうございました」で終わることで、礼儀作法を学ぶ。継続することで、弾ける曲目を増やすと同時に忍耐力もつける。
教えてくれる人への感謝の心、そして続けることの難しさや大切さ、集中力とチームワークの素晴らしさ、どれをとっても次代を担う子ども達にぜひ経験させたいものばかりである。このような体験をさせるのに、最も効果的なのがこの伝統文化教育ではないだろうか。心豊かな児童生徒を育成する上で、伝統文化教育の果たす役割は今後もますます大きくなるであろう。
読谷の文化を愛する心、沖縄の文化を愛する児童生徒を育成することが、日本や他国の文化を理解し、認め、真の国際人になることを信じ、素晴らしい郷土の文化をこれからも児童生徒に伝えていきたい。
ここに私たちが戻るべき原点がある。祭りのプログラムのためだけではなく、子ども達の成長のための、学習の場としての「受け継ごう、読谷の心」でなければならないし、加えて出演した児童生徒がほんとに出演して良かったと感じられるような、心のこもったものでなければならない。そのためには日頃の地域からの支援・応援体制や現場教師同士の協力も不可欠である。
しかし、最も重要なことは、如何にすれば「三線音楽」を学校教育の中に位置づけ、継続して取り入れていけるかということである。
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