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五 大阪大正沖縄子ども会との交流から学んだもの
これまた私事にて恐縮ですが、このところ年に一、二回は大阪大正区に行って、大阪のウチナーンチュの聞き取りをやっている。出稼ぎや進学で大阪に渡ったウチナーンチュの生き様を私なりに記録にとどめようと考えたからだ。今年七月半ばにも出かけた。その際、関西沖縄文庫の金城馨氏を通して『―フォトドキュメンタリー―大阪のウチナーンチュ』(太田順一著)を手に入れた。その中で、偶然にも、渡慶次小学校三味線クラブが一九八八年八月に交流した大阪大正沖縄子ども会の三線指導などに当たっておられる仲村昇氏の「信用生」と題した寄稿文を目にした。
仲村昇先生は琉球大学で、「郷土芸能クラブ」に入り、三線を始めた。山内昌重先生もこのクラブで三線を始めており、仲村先生は先輩に当たる。卒業後大阪に渡り、一九七四年、教員になって、大正区に移り住んだ。翌一九七五年には、「関西青年の集い がじゅまるの会」の結成に参画。その年から大正区でエイサー祭りを始める。一九七八年四月、先輩教師の金城良明先生と一緒に「大阪大正沖縄子ども会」を結成した。その子ども会で沖縄のことを教えよう、沖縄の文化に誇りを持とうと始めたのが、子どもたちへの三線の指導であった。以下、活動の様子を仲村先生の寄稿文から要約する。
「大阪大正沖縄子ども会」は、二世、三世の子どもたちを中心に約二〇名ほどで始めた。週に二、三回集まって、三線の稽古や沖縄の歴史、文化の勉強をしている。最初は、学校の宿題をやったり、独自のプリントをつくって、学習塾みたいだったが、金城良明先生と話し合って三線をやるようになった。肝心の三線もなくて、こわれてほったらかしになっていたものを借りて、修繕して使った。
四か月ほどで、四曲弾けるようになったので、父母を集めて小さな発表会をやった。親たちは喜び、子どもたちも感激した。敬老の日、沖縄会館に集まったおじー、おばーの前で弾いたら、鳥肌が立つくらい感動的だった。それ以来、三線をひくのにも真剣さがでてきましたね。親たちも、それまで家のなかであまり沖縄の話をしなかったのが、三線の発表会を見てからは、沖縄のどこそこに親戚がいるとか、子どもによく沖縄の話をするようになったみたいですね。大正区だけでなく西成区や兵庫県の尼崎など、沖縄の人たちがたくさん住んでいるところに出かけて行きました。人前に出るのが苦手だった子どもたちも自信をもっていったようで、自然とね、沖縄に三線をひきに行こうという声が子どもたちから出てきたんです。
最初にやってきた一九八〇年八月の大阪大正沖縄子ども会の沖縄への三線旅行(ある市)の様子を次のように書いている。
「(大正の)子ども会がサンシンを七、八曲ひいたあと、さて、沖縄の六年生は何を披露してくれるのかな、と楽しみに待っていたら、何とこれが、文部省の唱歌をうたったんです。最後に『安里屋ユンタ』を一緒にうたおう、ということになったんですけど、沖縄の子供たちはその歌をよく知らないので、先生が歌詞を書いたプリントを配っている。大阪の子供たちはサンシンひきながら、歌詞を見ないで堂々とうたっているのに、地元の子供たちは、歌詞を見ながらもボソボソとしか声が出ない」と。そのときの地元の子供たちの姿が目に浮かぶかのようである。
二回目の沖縄での交流が一九八八年の夏休み、渡慶次小学校だったのである。「八八年の夏にもう一度子ども会は沖縄へ行きました。でもそのときは、もう雰囲気がだいぶ変わってました。クラブ活動でサンシンや沖縄舞踊をする小学校が結構できてて、運動会でエイサーをしたり、学芸会で方言の劇をしたりするようになってたんです」と記している。
仲村先生たちは、なぜ大阪でサンシンやエイサーを始めたのだろうか。詳しく述べているので、以下要約する。
なぜ一世たちは沖縄を離れて本土で苦労しなければならなかったのか。それが二世たちに理解されていない。沖縄の文化も伝えられていない。これはやっぱり教育の問題さ。きちっと沖縄のことが教えられていないから、二世は自信をもって沖縄を見れないでいる。沖縄の人がたくさん住んでいるこの大正区で、子どもたちに沖縄のことを教えていく地域活動をせんとあかんな、そう思ったんです。
おかしなもので、地域の暮らしのなかには、村芝居やエイサーなど、沖縄の昔からのものがあるのに、学校はそういう沖縄的なものを否定するんです。学校では共通語で話さなければならず、方言を使ったらあかんのです。僕のころはもうあの方言札はありませんでしたが、方言をつかったら罰せられたのです。郷土沖縄の文化を考えるなんて、そんな時代じゃなかったんです。とにかくヤマト、ヤマトでしたから。
沖縄の暮らしのなかにある貧しさや野良仕事、村の芸能、方言……、そういったものを教育の名のもとに、見下していく、切り捨てていく。
仲村さんは、沖縄の教育こそが沖縄文化を切り捨ててきた、と自分自身の学校時代を振り返りながら、「子どものころを振り返り、自分も沖縄文化を押し殺してきたところがある」と語るのである。
タイトルの「信用生」は、すなわち「優等生」。そのころの「優等生」は、「放課後も残ってテストの丸つけを手伝ったり、日曜でも先生の家に呼ばれて行って、何か手伝ったりするんです。そういう信用生としての自分を意識して」、きちんとした標準語を話し、沖縄の文化を抑制してきた自分だったとの反省を込めたタイトルだったことに私は気づいた。
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