渡慶次小学校一〇〇周年を祝す 

伊波剛

 渡慶次小学校一〇〇寿おめでとう。記念誌発刊に当たり当時の思い出やエピソードなどを寄稿してくれとの便りを受けましたとき、うれしく思いました。
 当時若輩四三歳の新米校長として赴任いたしましたが、職員を見ると、先輩の教頭、女教師数名、師範卒、他は琉大新卒の先生方が多数おりました。
 学校経営、PTAとの連携に苦労はつのるばかりでありましたが、当時六〇周年記念式典を催す事についてPTAで話が持ちあがり、早速六〇周年記念事業期成会が発足しました。各委員会の集会が開催されるようになりましたが、当時のPTA会長神谷乗敏氏がニシユンタンジャ丸出しの気の荒い言葉で話すと、集まった役員が戦々恐々、発言を聞いていると度肝を抜かれる事もありました。が、月日が経つにつれて父兄の性格も知り、荒武者達とも肝胆かんたん相照あいてらし五年間学校経営ができた事は生涯忘れることはできません。
 また、六〇周年のときは赴任三年でしたが、七五周年、今回の一〇〇周年と、三度記念誌に寄稿する機会を与えて下さったこの喜びは私にとって大きなものであります。
 去年米寿を迎え来年は九〇歳、当時学校でウーマクだった児童が恐くて「校長先生、教室まできてくれ」と走ってきた新卒の女教師が思い出されます。そんな当時のヤンチャの児童が成人し、何かの集会や道で会った時、「先生」と挨拶をかわされた時、感激感謝でいっぱいです。
 当時の児童らが村内、県内、県外、海外であらゆる分野で活躍している姿を見た時、渡慶次小学校出身で独学で成功した大先輩当山真志先生、山内昌彦先生、高嶺世太先生、長浜真徳先生、多士済々の指導者がおられたことを思い起こさせます。
 渡慶次小学校の校舎は、地勢的にも堅い岩盤の上に建っていますが、背水の陣をしき進まなければ後は残波の崖から追い落とされます。前進あるのみの気骨を養成する要素もそなわって、偉い指導者が輩出したものだと思っております。
 「自信は成功の秘訣」「勤勉は成功の母」という格言のとおり、山内昌彦氏は当時学校の小使いとして働きながら、勉強も先生方の指導を受け師範学校卒業資格の取得や、代用教員をやりながら退職後東京へ行き当時の渡慶次小学校の恩師に指導を受け見事士官学校合格の栄冠を勝ちとり、戦後帰郷後は村や学校に対しご協力が大きく後輩指導のため尽力された方であります。
 屋良朝苗先生は県知事として日本復帰を実現され、当山先生も校長職を長年やってその後立法員議員として活躍、比謝川配電社長など地域住民の指導者として活躍されました。その他医師の松田昌嘉先生、長浜真徳先生、終戦後の治安維持のため県警察本部長の高嶺世太先生など各分野で活躍なされた大先輩に続く後輩のご活躍と渡慶次小学校の発展を祈りたいと思います。
 私の在任中にも那覇首里他市町村からも小使いの希望者が多かったことは、いかに大先輩の諸先生方の活躍に感動をうけた人々が多かったかを思わせます。
 昭和三七年九月、児童や職員、PTAの多年にわたり養護教諭配置希望があり、早速県保健体育課や中頭教育事務所へ要請に行き、真栄平節子さんを北部保健所より許可を得まして採用しました。当時石ころの多かった運動場ではケガが多く、そのうえ病院にも遠く、就任後真栄平先生は児童やPTAから救いの神の如く慕われました。そのほかにも寄生虫駆除、虫歯治療、保健衛生、体位体力の向上、衛生思想の普及に貢献されました。さらに、五時以降の校務以外の時間帯に父兄から子どもが発熱しているから診てください、屋敷内の木から落ちてケガしているので薬をもらいたい、などと連絡を受け、その都度措置に当たり、校区民からは医者以上の信頼がありました。当時本人の時間外勤務にも体力の限界があるし、私としてはPTAとも相談し、養護教諭の職務について各字別に父兄母姉会を開催し協力と理解を深めた事は、あの時を思い出すに感無量であります。
 一九五九年八月、校地周辺のブロック塀四八四メートルの工事を開始しました。校区内各字父兄総動員の協力により短期間に工事を完了しました。ブロック塀各字割当で実施したが、いざ作業を始めると某字から割当が少ない、多くしてくれとの嬉しい苦情もでるなど、PTAの積極的な活動は他地域では想像もつかないことではないかと思いました。
 とりとめもない話になりました。退職してもう三〇年近くになり、いろんな思い出が走馬灯のように浮かびます。どうぞ、これからも一年一年、子どもたちの成長とともに歴史を刻み込んでください。期待しております。