曽根誠一
映えある一〇〇周年心からお祝い申し上げます。かかる慶事の記念誌に寄稿の機会を小生にまで与えてくださいまして深く感謝致します。
一〇〇年どっかと腰を据えたガジュマルがならんでいる学校、私にとって最も親近感がある学校、それが渡慶次小学校です。祖父や伯父のヌイ馬で小学校に入学する前からカタノーでの馬ハラシーに行き、なお、父が明治の末から大正期にかけて一五年も渡慶次小学校に勤め、お世話になりました。沖縄障害児教育発祥校であり、山内昌彦先生、屋良朝苗先生を筆頭に次々に逸材の方々を出した世にも珍しい小使室の話(昭和一〇年頃からは選抜試験も行われたとか)・学校や職員を親身になって世話してくださった前川上(メーヌカーカン)の安田慶助翁はじめ情熱溢れる方々の話も聞き、そして父に連れられ、あるいはお使いで七〇年余りも前から、門前を往来し慣れ親しんでいる学校と高志保の間はサトウキビ畑が続きなかほどに溜め池があり、夕暮れには残波から吹いてくる風でゆーらゆら・さらさら、襟首はひんやり、怖い空寂しい長い長い道であった。
渡慶次校区の方々の気骨のある一本芯の通った気質が気に入っている。昭和二二年、高志保の当時アカムヤーといって赤土の松林の中に一〇坪ほどの瓦屋が一軒あり、その前のバレーボールコート一面半ぐらいの運動場、裏の一〇〇坪足らずの畑と松の透き通った間に、米軍払い下げの濃緑色の大小のテント教室に塵捨て場から拾ってきた木切れを二本打ち込み弾薬箱を崩した板を張った机の渡慶次初等学校に転勤した。担任は七年二組・女組、女三人よれば何とか、七二名である。且つ、花も恥らうか弱い少女たちではない、体力も気力も男勝りで、ケンカをしても負けない実に頼もしい復興期に打ってつけの私の好きな「超渡慶次っ子」たちであった。女を意識する必要もなく、ショベル、鍬、鎌、のこ、ハンマーを持たし、教室づくり、荒地の開墾とじゃんじゃん使った。さすが渡慶次っ子、テントからはみ出していたが、授業中は静かであり、八年生の受験勉強に触発されて放課後まで、なかには夜まで居残っての勉強。六・三・三と学制が変わることになり、昭和二三年には中等学校二年生となり高校受験は一年お預けとなったが、気にすることなく勉強にはさらに拍車が掛かった。昭和二四年には、三中等学校が統合独立し生徒たちとともに読谷中等学校へ転勤となったが、勿論、渡慶次校も読谷中等学校の校区内、さらに字瀬名波の担任と読谷中学を去るまでの一二年間渡慶次校区との縁は続いた。その間、校区の方々には大変お世話になり、甘えてもいた。昭和五三年再び懐かしい渡慶次小学校に転勤し、真新しい体育館、整備された運動場のガジュマルに見守られながら可愛い渡慶次っ子たちとたわむれ、昭和五六年三月立派な図書室を有し、「枯れ山水」の優雅な庭を備えた敬愛する渡慶次小学校で教員生活四〇年の幕をとじることができました。
ほんとうにありがとうございました。渡慶次小学校の悠久の弥栄(いやさか)を祈念いたします。