兵庫医科大学教授 福地稔
読谷村字渡慶次三七〇番地(当時)が私の出生地である。一九三四年五月一日に生を受けた。家が学校近くであったので、例の「…道沿いの大きなガジュマルが心地よい陰をつくっていた…」あの校庭を遊び場として育ち、そして入学期を迎えた。
時は一九四一年四月、学校が「尋常小学校」から「国民学校」と呼び方を変えた初めての一年生である。世が世であれば此処で心弾む六年間を送る予定であった。しかし、その年の一二月八日、かの真珠湾攻撃を機に日本は第二次世界大戦に突入し、楽しかるべき日々は無残にも寸断された。
顧みるに私の小学校時代は正に戦争一色であった。まともに通学できたのは確か三年生までと記憶する。一九四五年四月一日、あの米軍が上陸し、翌二日には早々と虜囚の身となった。此の年の始めには父を失い、母と姉との三人のみであった。空襲の激化に伴い人々の多くは北部(山原)を目指し疎開を始めていたが、母子三人では為す術も無くこの地に留まる以外に選択肢は無かった。渡慶次で米軍の上陸を迎え、そのまま捕らえられたケースである。
当時の小学校は先ず日本軍に接収されて機能しておらず、取り敢えず近隣の高志保等にあった御願所に仮に集まって、細々と勉学を続けていた。その後捕虜となって、宜野座村字漢那(当時)の漢那小学校へ通学した。しばらくしてようやく渡慶次への帰郷が許され、やっと渡慶次小学校(名称のみ)に転校した。場所は高志保の丘のところにあったテントづくりの仮校舎である。
やがて歳月のままに何時しか新制の読谷中学校に進学を許され、一度も現在の渡慶次小学校に戻ることはなかった。思えば寂しく、苦しい時代であった。私の小学校生活は残念ながら三年生迄で凍結された時代であった。心ならずも戦禍に巻き込まれ、撹乱された悲しむべき幼少時代であった。人々が飢えを凌ぎ命を繋ぐ為には、人殺し以外のことは全てやり尽くしながら、その日その日を生き抜いたものであった。
今、テレビでアフガニスタンの窮状を目にし、焦土をさ迷う子どもたちの映像に、往時の我が姿を重ねみて感慨一入(かんがいひとしお)である。現在兵庫県に住み、既に齢は還暦も遠く喜寿にも手の届く迄に至っている。七年前この地は未曾有の阪神・淡路大震災に遭遇した。一瞬にして六四〇〇余人の命が奪われ、一面焦土と化した惨事であった。まさに小学校時代の凄惨(せいさん)さを追体験した訳である。この様な辛い思いを後輩たちには決して繰り返して貰いたくない。小学生生活の思い出は、いつの世にも楽しくあるべきであると、母校創立一〇〇周年に寄せてつくづくと思うものである。