知花亀次郎
(一九五〇年一〇月〜一九五一年九月勤務)
「野球指導」の思い出をテーマに寄稿依頼がありました。五〇年余も昔のことで薄れかけた記憶を辿りながらのお話で恐縮です。
一九五〇年四月から六ヶ月間、コザ教員訓練所での研修を終え、教官補として渡慶次初等学校に配置されたのが子ども達との出会いとなる。五〇年一〇月だった。宮城傳三郎校長はじめ多くの先輩達の歓迎を頂き四年担任を拝命。初任給一九〇〇B円也。
授業は午前で終了、子ども等は下校となる。職員の退庁時間も全体的に自由裁量の感。小生は、休み時間や放課後はクラスの子どもたちとじゃれ合い、初めての教員生活を楽しみながら五〇年度を無事修了。翌五一年四月、体育主任の山内繁雄氏が読谷中へ転任。後任として五年担任の小生が体育主任を拝命。体育主任の任務には、体育用具の管理や諸競技大会への参加準備等があった。
早速、近々やってくる野球大会に備えなければならない。六年生を主体としたチームで毎日放課後三時頃から練習開始となる。子どもらは、これまでの積み重ねもあって投球、捕球に守備感覚も良好。打撃も球を恐れずよくついていく。ポジション獲得にも闘志がわく。練習二〜三時間。個々のハンブルには容赦なく怒声が飛ぶ。又当時は物不足の時代、ボール一個とはいえ貴重な備品。練習で草叢(くさむら)やかずら畑に逃げ込んだボールは見つかるまで皆で探す。これも用具確保の為練習後の欠かせない日課だった。打撃練習で困った事はバット。US製は長くて重い。苦肉の策として、先端を少々切りつめて使用。効果的中。子どもらの打撃力がアップした。その後暫く、渡慶次小校チームの秘密兵器的存在となる。投手には山内昌治君(故人)がいた。落ち着きがあり球威も制球力も抜群、大会制覇の立役者だった。子どもらは日々に成長著しく、五一年の野球大会で他を圧倒し優勝。村代表として普天間初等学校で行われたコザ地区大会に出場。他を寄せつけず優勝。意気揚々優勝旗を先頭に「あな嬉し喜ばし…」を大合唱しながら職員、父母の待つ学校へ凱旋。おそばの御馳走をいただきながら、校長の激励で今一度優勝をかみしめる。
顧みれば小生には「誰が生徒か先生か…」の教職一年生だったが、渡慶次初等学校での忘れ難い思い出となった。そこには又、日頃の練習時に度々手作りのココアミルクやぜんざいやかちシブイ(?)等をさし入れたりして子どもらの体力補給の為使丁や女教員の温かいもてなしがあったことも忘れ難い。多謝。
その後五一年一〇月、小生は読谷中学校に転勤することになったのだが、よい思い出を共有させてくれた当時のチームメンバーを紹介し感謝したい。
与那覇徳光、津波仁正、山内敏英、山内徳信、松田昌俊、山内昌一、儀間重信、与那覇昌勝、棚原栄雄、山内昌治(故人)、福地蔡文(故人)。
渡慶次小学校の更なるご隆昌を祈念申し上げ、思い出の一端とさせていただきます。