終戦直前・直後の想い出 

字長浜 山内静子

 私が本校に入学したのは、昭和一五年四月、クラスは四クラスでした。担任は一組与座先生、二組池原ツル先生、三組知花テル先生、四組比嘉ヨシ先生、私は四組でした。
 教室は南側にあって、西側から一組、二組、三組、四組と仕切られた北向きで、教室の前は一年生が遊べるくらいの広場で、鉄棒、シーソー、砂場があり、そこは上の運動場と呼んでいました。二年生になると三クラスに編成され、中の教室で、そこも西側から一組、二組、三組、次は保健室、備品室だったと思います。東側に職員室、炊事場、その横には井戸があって、職員室の前の方には、大きな四角いタンクがあり、そこは生徒の水飲み場でした。少し離れて大きなガジュマル、そして奉安殿、その横には西向けに教室があって、三、四年生の教室、北側に五年生以上高等二年までの教室が南向きに建てられ、運動場は教室でコの字型に囲まれていました。その教室の前には大きなガジュマルが二本あり、道路沿いに四本で、運動会には教室の前の東側のガジュマルの下に運動器具や役員の控え場所、西側が入退場の集合場所、道路沿いのガジュマルの下は、生徒の控え場所で、運動会は青年会の陸上競技大会も一緒でしたので、生徒の演技よりも各字対抗の競技が重視され、審判の少しのミスも許されませんでした。
 各字のシンボルは、高志保(白)、渡慶次(桃)、儀間(黄)、宇座(紫)、瀬名波(緑)、長浜(赤)の鉢巻きでした。走の時は、先頭を行くのは、桃色か紫色で、後方は緑色と赤色でした。
 児童の演技は、隣学年一緒でした。私が四年生の時(昭和一八年)からは、運動会の演技も戦争にちなんだもので、あの頃は歌詞の意味も分からずに歌っていましたが、今考えると真珠湾攻撃の歌でした。記憶している部分を記しますと、
 『やがて近づく真珠湾  敵艦隊だ 敵陣だ
   すめらみことの御為に  命捧げる決死隊』
という天皇のために命を捧げるという内容で、三、四年生の女児の遊戯でした。
 五年生の時からは、戦車壕掘りや防空壕の支柱にする松の木の皮むき等をしたり、二学期からは教室も兵舎に変わり、私達は高志保のサーターヤー(製糖小屋)に移されました。
 昭和一九年一〇月一〇日に初めての空襲、それからは戦雲も濃くなり、三学期からは学校も閉鎖し、村民は国頭村へ避難する者、又そのまま残る者、四月に渡具知の浜から米兵は上陸し、六月終戦となり、捕虜になり、村民は石川、漢那、宜野座や北部、その他に収容され、戦後の生活が始まりました。
 昭和二〇年一二月頃から村民は各地の避難場所から郷里読谷に帰るようになり、旧役場敷地に読谷初等学校が開設され、又高志保のシービヌチヂの松林に読谷初等学校の分校として渡慶次分校が開設され、その後渡慶次初等学校として独立しました。その後三年間教室はテント小屋で教具教材もなく、学用品は米軍の払い下げの紙を拾って来てノートを作って勉強しました。又修了式の賞品はララの贈り物(救援物資)で衣類や日常品などでした。


高志保のテント校舎前で


 昭和二三年に学校制度の改革で「六・三・三」制度になり、渡慶次中等学校が設立され、私達が最初で最後の渡慶次中等学校の卒業生です。

あの日あの頃の学び舎は
松林のテント小屋
土間に植え込みの机腰掛け
雨が降れば頭上に水溜をつくり
風が吹けばパタパタはたくテントの壁

あの日あの頃の合い言葉
復興だ村おこしだと
生徒も朝から鍬をふり
運動場整地農耕作業
食糧が乏しい時代で
雨が降ると翌日は増産休み
汗水流して頑張った

焼け野が原の運動場で
戦後初めての運動会
水缶を太鼓代わりにたたき
男生徒の吹く草笛楽隊
それに合わせて入退場
ああなつかしきあの日あの頃

初めて勤めた我が母校
時は昭和二七年
茅葺きやトタン葺きの学舎に
同僚一八人むつましく
人去り変わる学舎も
公的資金で整備され
教具教材もパソコン時代

変わらぬものは校庭に
緑をたたえ今もなお
幾多の災害もたえてきた
われらが母校の大ガジュマル

古き歴史をひもとけば
母校の齢一世紀
移りゆく世に変わりなく
われらの母校よ
子どもらよ
永久に栄えあれ……

と祈ります。



1954年2月15日撮影