第一節 沖縄の中での読谷山の学校史(明治時代)

一、琉球国時代の学校

 沖縄においての、いわゆる学校設立の最初は、那覇久米村(現在の那覇市久米町)の明倫堂(めいりんどう)であるという。即ちそれは一七一八(尚敬王六)年に、名護親方程順則の建言で、久米孔子廟(くめこうしびょう)の境内(けいだい)に建てられた。現在の那覇商工会議所の場所である。今そこには、国道五八号に向かって、台湾の中華民国の蒋介石の題字のある大きな孔子像(こうしぞう)が立っている。しかしこの明倫堂は、中国人の子孫と称する唐営(とうえい)(久米村)人の為の、教師も中国から招聘(しょうへい)したりなどした特殊な学校で、沖縄一般の学校とは言えない。
 次に、琉球歴代中の英王といわれる尚温の時に至って、一七九八(尚温王四)年に、高等教育機関としての「国学」と、中等教育機関としての「平等学校所(ひらがっこうじょ)」三校が設立された。四校とも首里に開設され、いずれも官吏(かんり)養成のための、支配者階級の子弟の為の学校で、これまた一般の学校とは言えない。
 初等教育の為の学校は「村学校所」と言った。ちゃんと決まった校地・建物をもった学校所の一番初めは、一八二四(尚王二一)年に出来た、那覇泉崎村の学道館であろうと言う。一八三五(尚育王元)年には王府の令達も出されて、三〇余の村学校所が出来た。しかしそれはすべて、首里・那覇の士族のための学校で、平民一般のものではなかった。