第一節 沖縄の中での読谷山の学校史(明治時代)

二、地方役人の養成

 年月の経過、時代の変遷とくに先の沖縄陸上戦によって、我々は多くの古文書を失った。それでも思いの外、各地から琉球国時代の古文書が発見されていく。それらを見てまず驚くことは、その筆跡の見事さである。江戸時代には沖縄も含めて、公文書ひいては日用文・書簡文の主流をなした書風は、尊円親王を祖とするいわゆる御家流であった。沖縄にもそのやや肉太で豊かな点画、流麗な線、総じて我々にも親しみやすい書風でかかれた地方役人の文書が多い。前記の正規の学校から選出された平民でしかも田舎住まいのこの地方役人たちは一体どうしてかくも見事な書技を身につけたであろうか。それには二つの方法があったという。一つは、地頭から御殿殿内奉公を命ぜられて、数年間の首里滞在(首里詰)中に身につける方法。もう一つは、間切の文子(てぃくぐ)(書記)養成のため、間切番所に設けられた筆算稽古所(ひっさんけいこじょ)で学習する方法である。『国頭郡志』の中に「当時平民(文意からすると筆算稽古人)に日夕服膺(ふくよう)せしめた文左の如し」として、
 註・服膺(ふくよう)(「膺」は胸の意)心にとどめて忘れないこと。

  「其方等事 土民の家に生れながら 農業の辛苦を免かれ 百姓等に尊敬せらるること何故ぞ 只 筆算稽古する故ならずや……土民の中より筆算稽古人と押立てられ鋤をも取らず 鎌をもささず 短衣をも不著品やかに打振舞は誠に冥加の至 不謹は不叶儀に候 云々」

とある。以て地方に於ける筆算稽古人ひいては地方役人の境遇をよく表していると言える。この筆算稽古所の教授には、先輩の地方役人たちが当たったという。