第一節 沖縄の中での読谷山の学校史(明治時代)

三、読谷山間切の村学校所

 一八世紀から一九世紀へ、近世から近代へと世の中が進むにつれ、地方においてもシミンチュ(読み書きの出来る人)の需要は高まってきたと思われる。一方、首里、那覇居住を原則とする士族の中にも、食を求めて田舎下りする者が多くなった。その中のそれなりの学力のある者を、有力な村(現在の字)、あるいは数村が合力して教師としてやとい、間切の筆算稽古所に類した学習塾を開いた。これが地方における村学校所の起りである。その起原の年代ははっきりしないが、その設立の遅ち速そくや学校数の多寡には、相当の地域差があったことは容易に推測される。
 読谷山間切の村学校の設置状況と、その師匠(教師)の名が伝えられたのを記すと、座喜味村―真栄城、波平村―島袋、高志保村―奥原、渡慶次村―饒平名、伊良皆村―佐久本、楚辺村―富里であったという(『読谷村誌』)。座喜味には、村学校敷地だったという場所が今は畑地になっていて、ガッコウジという微小地名として残っている。こういう地名はさがせばまだ他にも見つかると思われる。このガッコウジは学校敷地ということで、学校地と当てたくなるが、本来は「学校所」のようだ。すでに蔡温の『独物語』の中に「学校所相立」とか「学校所人数相しらべさせ」とか「学校所の儀は」などと出ている。