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四、村学校所の様子(照屋梅岸翁の手記)
照屋翁は上地村のご出身で、一八六八(明治元)年の生れ。翁の手記にもある通り、琉球国時代の村学校所の最後の墨習(シミナレー)(生徒)であり、また読谷山小学校第一回目の卒業生でもある。一八九〇(明治二三)年尋常師範学校を卒業、後に島尻の佐敷、知念小学校長をも勤められた。ご家族のほとんどが戦前に、内地やブラジルに移住されたが、翁はお一人で沖縄にふみとどまり、持ち前の気骨で戦火を無事に切りぬけられた。そして戦後の石川の避難小屋の中で、これからはペン字の時代だとペン習字に励まれた。やがて八〇余歳になられて翁自身もブラジルの家族の許(もと)へ移住された。沖縄の廃藩置県前後の学校情況の手記を幾編か見たが、その生き生きした描写は管見(かんけん)の限りでは、翁の手記に勝るものはない。それで今後の好資料でもあると考え、翁の手記のほとんどを左記することにした。
註・管見(かんけん) 狭い見識。自分の見識や見解を謙遜していう語。
なつかしい思ひ出
上地 照屋梅岸
「(前略)私は旧村学校所(むらがっこうじょ)(今日の字)最後の墨習(今日の生徒)であったから旧と新との中継役として最も相応しい。それ故に私の出て居た字学校の事を書いたら全村の教育が大体判然する事と思ふ。私の字は小さいかたよりの字だから学校はお隣の座喜味に出た。師匠は首里の人で生徒が七八名位であった。当時の学校は字基本で一切字がやってくれた。先生の住宅、生徒部屋は勿論、給料の代りの畑も字から与へ、先生自身で耕し、時には年長生も一緒に働くといふ師弟の親密は実に理想だといってよい。私は一ケ年六〇銭也の授業料を納め、其の外には座喜味の字に対して何等上げなかった。生徒は七八歳頃から就学してゐたが、吏員の卵として養育された。扶持一俵宛之も字から給与された。教師の水薪の労も生徒がやるし、農作物の初穂は勿論、節句等の配り物まで父兄がやるから、父兄との関係も余程懇切であった。正月元旦に先生が生徒一同を招かれて接待された事は今に頭に残って居る。朝の出校は実に早い。「東明(あがりあか)がりば墨習(しみな)れが行ちゅん鬘(からじ)結て賜(たぼ)れ我着物(ちん)賜れ」の歌の通り、一五才までは真まー結(ゆい)ですから、毎朝母の御手々を煩(わずら)はし、暗い中に起きねばならぬ。校門に片足を突込むと同時にお日様の顔が見えたら最早駄目、黒星(欠席のこと)である。そして月末に調査して黒星を貰った者は樫の木の一寸角定規位のもので掌が真赤になる程打たれたものである。尚年末出席調査を行ひ、最も黒星の多いものは木馬に乗せられて字中引張り廻された。私は年令も幼く、途中が山道である為度々遅刻して、木馬に乗せられ手を打たれた体験がある。
生徒の取締は一切年長者任せで、如何なる事にも教師は関係しない故に、取締人の善悪は其の学校の幸不幸の分れ目となる。
朝は一人宛教師の前に出て素読だけ授けられ、生徒部屋に戻って百遍繰返し一々算を取るから(一度読めば一の算、一〇度読めば一〇の算、一〇〇度読めば一〇〇の算を取出す)朝の学校は恰(あたか)も蝉(せみ)や蛙(かえる)の鳴場所同然であるが、本人は中々一生懸命。一〇〇の算を取る事に夢中であるから、他人の音読等は一寸も耳に入らない。一〇〇編読終って朝食に帰り、再び出校して習字や運動に励む。本の講釈は一五六才の頃始まる。学科は読書・算盤、習字の三科目で、どんな薄っ平な本でも一□終ったらお重(ご馳走即ち重箱)を出して教師に謝し、生徒一同で平げる事も楽しみの一つであった。大抵の本は教師が書いて下さる。毎月朔日(さくじつ)(一日)には村中の教師生徒全部三〇人位役場に集り、上字(あげじ)(習字)の勝負事がある。皆の教師が調査して地頭代(村長)に廻し、文子(てぃくぐ)(書記)から各自に戻してやるが、優等者には役場から褒美も下された。以上は明治一二年の終頃まで続いてゐたが、それ以後は何れの学校も生徒がなく閉鎖の憂目を見たのである。」
註・扶持(ふじ) たすけささえること。
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