第一節 沖縄の中での読谷山の学校史(明治時代)

五、沖縄県小学校の始め

 前の照屋翁の手記の中に、村学校は明治一二年の終頃まで続いていたが、それ以後は何れの学校も閉鎖の憂目を見た、とあるのは、この年の四月沖縄での廃藩置県が行われたからである。すなわち一八七二(明治五)年から始まった琉球処分の最終段階として、琉球国が亡んで沖縄県となった年である。そしてこの年から全国におくれること八年ながらも、沖縄に対して、明治政府の近代化政策が表立って行われ始めたのである。
 この沖縄県初めの学校開設について『沖縄県政五十年』(太田朝敷著)は次のように要領よく述べている。

 「本県の新教育の端緒が開かれたのは明治一三年であるが、是より先一二年の末に先ず旧学校を旧式のまま復活させて置いて、一三年の二月には県庁内に会話伝習所なるものを設け、旧学校の生徒中より優秀なるものを選抜して入所せしめ、県の学務課員が庁務の余暇を以てこれ等の生徒に普通語と小学校の教科書などを伝習せしめ、その六月には師範学校を設立して教員速成の教育を開始し、一二月には首里の国学に中学校を開設し、尚お首里の三平学校に三学校、島尻に一〇学校、国頭に一小学校を開設したのである」
 那覇・中頭に新設校がなくて、国頭に一校あるのが目立つが、これは伊江島に出来たのである。翌一八八一(明治一四)年には四校が新設されて累計一八校、この四校の中に中頭小学校がある。次の一八八二(明治一五)年には一挙に累計五三校にふえたという(『沖縄県政五十年』)。その中に読谷山小学校がある。それにしても学校数のこの激増ぶりはどうであろう。わずか一二年で人心が好学に向かったとは考えられない。事実学校数は激増したにもかかわらず、その中味である就学児童の数は、明治一四年の一〇〇六名が、三ヶ年後の明治一七年にさえ一八五四名になったにすぎない。結局は新設学校の増加は、県民の自発的向学心の故ではなく、県の、上杉茂憲県令(今日の県知事)の間切吏員たちへの膝詰め談判的な督学(とくがく)によることが大きいと思う。筆者は、県下の各学校の○○周年記念誌も含めて沖縄の教育史が、上杉県令の熱意に対してもっと共感を以て応えるべきだと思う。彼が明治一四年五月に赴任して間もなく行った、ほとんど全県下に及ぶ民情視察での、各間切島の吏員に面談して行った督学の熱意なくしては、一八八二(明治一五)年のあの学校開設の急増は考えられない。
 註・督学(とくがく) 学事を監督すること。